「…………あたし、一体何のために書いてるんだろ……? もう分かんない……」
気がつくと、私は大粒の涙をこぼして泣いていた。書けない作家はもう、誰からも必要とされなくなるんじゃないか。原口さんからも……。
* * * *
――私は思いっきり泣いたところで、この問題の根本的な原因について考えを巡らせた。
一つ目は、二年前に原口さんと琴音先生との仲を引き裂いてしまったのは自分だと、勝手に罪悪感を抱いてしまっていること。
二つ目は、この原稿を「書かなきゃ」と強迫観念のように思いつめていること。
一つ目については、原口さんとキチンと話せば解決するのだろうか? なので、まずは二つ目の原因の解決策について考える。
とりあえず「書かなきゃ」と自分を追い込むのはしばらくやめて、自然と「書きたい」と思えるようになるまで別のことで気を紛らわせよう。
――ということで、本を読んだり(原口さんがくれたエッセイ本だ)、スマホのアプリでゲームをしたり、TVを観たり。そうしているうちにお腹が空いてきたけれど、夕飯を食べる気にもなれず、またエッセイ本を読もうとしていると――。
――♪ ♪ ♪ ……
机の上に放置していたスマホに電話が。発信者は……えっ、今西クン!?
『もしもし、先パイ。オレです』
通話ボタンをタップすると、まるで〝オレオレ詐欺
「ゴメンね、今西クン。気持ちはありがたいけど、私が寄り掛かりたいのはキミじゃないの。……好きな人がいるから」『……そう、なんすか。分かりました! オレは全っ然ショック受けてないっすから! 大丈夫っすからね!』 彼が強がるのを聞いて、何だか余計に申し訳なくなってしまう。「ホントにゴメンなさい」『先パイ、もういいっすよ。これからも、バイト仲間としてよろしくお願いします。じゃあまた』 電話が切れた後、私は新たな罪悪感を抱え込んでしまった。でも、今西クンはきっと大丈夫だ。私より若いし、大学生は忙しいからいつまでもウジウジ悩んでなんかいられないだろう。そのうちきっと忘れるよね。 ――というわけで、私は読書を再開した。そして、じっくり読んでみて気づいた。書き手なら誰しもが経験するであろう〝産(う)みの苦しみ〟という代物(しろもの)に。 悩んでいるのは私だけじゃないんだと思うと、少しは書けそうな気がしてきた。「とりあえず、ちょっとだけ書いてみよ」 改めて原稿用紙に向き合い、シャーペンを握った。利(き)き手は右なので、左手の傷は書くことに何の
「そうだったんですか。――はい、どうぞ」 お盆から氷を浮かべた麦茶のグラスをローテーブルの上に置いていると、彼は大げさに包帯の巻かれた私の左手をじっと見ていた.「恐れ入ります。――その左手、大丈夫ですか?」 「あ、はい。ただの切り傷で、大したことないんです。利き手じゃないから、シャーペン持つのにも差し支(つか)えないですし」 今西クンの時と同じように、カラ元気を発揮して明るく答える。でも、これは却って逆効果だったらしい。「先生、それって本心じゃないでしょう? 僕にまで強がってどうするんですか」「…………はい。ホントはすごく怖かったし、今でもズキズキ痛みます。自分でも何て無茶したんだろうって後悔してます。……でも……っ」 どうしてだろう? ただ本音で話しているだけなのに、この人の前で涙が零れてくるのは。「私はただ、本を愛する者として、本を書く側の人間として、どうしても許せなくて……。だから……つい、体が勝手に動いちゃって……っ。ひとりになって初めて、『怖い』って思ったんです。私……っ、そんなに強い人間じゃないですから……っ」 しゃくり上げながら話す私に、原口さんは優しく「分かりますよ」と頷いてくれた。「店長さんからの伝言を預かってきました。先生は明日、診断書を提出してからしばらくバイトはお休みするように、と」「え……? いえ、そういうわけにはいきませんよ!」 彼の口から飛び出した店長からの伝言に、私の涙は引っ込んだ。こんなことでバイトを休むなんて公私混同だ。たとえ傷を負っていたとしても、お客様に私の事情は関係ないのだから。「そのケガでは仕事にも支障が出るし、何よりお客様にも心配をおかけしてしまうから、と。『接客業だということを忘れてもらっては困る』、だそうです」「…………そう、ですか。店長命令なら仕方ないですね。分かりました」 私は渋々頷いた。店長が原口さんに伝言を頼んだということは、私を通じて二人の間にはそれだけの信頼関係ができているということだ。私はその信頼関係を、自分から壊そうとしているのに……。「……ねえ、原口さん。私がもし、『今の原稿から降りたい』って言ったら幻滅(げんめつ)しちゃいますか?」「…………え?」 私にしては珍しいネガティブ発言に、原口さんは虚(きょ)を突かれたように目を瞠った。「理由は訊かないで下さい。私
「原因は……西原先生ですよね? 昨夜、彼女から連絡がきました。『二年前のこと、ナミちゃんに話しちゃった』と。先生がそのことで責任を感じているようだともおっしゃってましたが」 彼は麦茶をガブ飲みしてから、続きを言った。 「あれは先生のせいじゃないです。不器用だった僕が招(まね)いた結果なんです。だから先生が気に病(や)む必要はありませんよ」「……はい」「それから、先生が『降りたい』とおっしゃっても幻滅はしませんよ。蒲生先生と違ってちゃんと理由があるわけですし」 彼が異動することになった原因の人物を引き合いに出し、私を慰めてくれた。……が。「ガッカリはしますけどね」「……ですよね」 Sである原口さんは、ブッスリ釘(くぎ)を刺すことも忘れない。こういうところは実に彼らしいなあと思う。「――そうですね。僕は先生が仕事を途中で投げ出すような人じゃないと信じてます。ですが、思いつめてるようなら、一度気持ちをリセットした方がいいかもしれませんね」「え……、はあ」 〝リセット〟って言われても、具体的には何をすればいいのか分からない。「とりあえず、しばらく僕からは連絡しないようにします。先生の方で『もう大丈夫、書ける』と思えるようになったら、改めてご連絡頂いてもいいですか?」「はい、分かりました」 自分が連絡することで、私にプレッシャーをかけているのではと彼は思ったみたいだ。「――それじゃ、僕はこれで失礼します。お茶ごちそうさまでした。左手、お大事に」「あ、ありがとうございます」 私のケガを心配しつつ、原口さんは帰り支度を始めた。「原稿が上がったら、僕に伝えたいことがあるんですよね? 僕、楽しみにしてますからね」「えっ? ……はい」 ……原口さん、ちゃんと覚えてくれてるんだ。しかも、〝楽しみ〟にしてくれてる。「原口さん! 今日はありがとうございました!」 見送り際(ぎわ)、私は彼にお礼を言った。 彼が来てくれなかったら、私はきっとまだ一人でウジウジ悩んでいただろう。彼に会えて、少し元気が出てきた。 彼のグラスを右手だけですすぎながら、私は気持ちをリセットする方法を考えていた。こういう時は、誰かに会って元気をもらうのが一番いい。そして話を聞いてもらって、アドバイスをもらえるならなおよし。 琴音先生は除外するとして、他は誰だ? 由佳ちゃ
『――はい、巻田です。奈美なの?』 母は、コールしてすぐに電話に出てくれた。ちなみに実家の電話はナンバーディスプレイである。「うん、私(あたし)。――ゴメンね、今大丈夫?」『大丈夫よ。お父さん、昨日から大阪(おおさか)に出張中でね。夕飯も一人だから慌てる必要もないし』「出張? そうなんだ……」 それを聞いて、私は閃(ひらめ)いた。母一人の時くらい、外食してラクさせてあげよう!「私も夕飯まだなんだ。ねえ、お母さん。たまには二人で外でゴハン食べようよ。私ね、お母さんに聞いてほしい話があるの。お母さんもラクできるし、一石二鳥でしょ?」 私がまくし立てると、なぜか母は笑っている。『そうね。お母さんも実はそうしようと思ってたの。――奈美は何が食べたい?』 ……あれま、なんて偶然。さすがは親子だけあって、考えてることが一緒だった。「じゃあ回転ずしがいいな。今からそっちに行くよ。三十分くらいで行けると思うから、駅前で待ってて」 誘ったのは私の方だし、実の親だからって母に来てもらうのは筋が違う。&nb
「……っていうか、アンタその左手の包帯、どうしたの? 仕事中にケガしたの?」「うん……まあ、ちょっとね。バイト先に、万引きしようとしてた中学生がいたんだけど――」 私はその子がカッターナイフを持っていて、それを取り上げようとして切られたのだと母に説明した。「……アンタはまた、そんな無茶して」 やっぱり、母にも今西クンや原口さんと同じように呆れられた。「うん……、あたしもそう思う。っていうか、二人くらいにおんなじように叱られた」「…………まあいいわ。お腹すいたわね。行きましょうか」「うん」 私と母は、駅からすぐの回転ずしチェーンのお店に向かって歩き出した。 * * * *「――いらっしゃいませ! 二名様どうぞ」 元気いっぱいの女性店員さんに案内され、私達親子は店内のテーブル席に向かい合って座る。回転するレーンから私はサーモンの握り、母はヒラメの握りを取った。 サーモンにお醤油(しょうゆ)を垂(た)らし、一貫(いっかん)食べたところで私は手を止めた。「どうしたの? あんた、お寿司(すし)大好物でしょ。食べないの?」 確かに、お寿司はバナナと並ぶ私の大好物だけれど。「うん……、食べるけど。お母さんに聞いてほしい話があるって言ったでしょ? ……あるんだけど」 何からどう話せばいいのか。頭の中を整理しようとすればするほどこんがらがって、なかなか言葉が出てこない。「あ、そうだ。ビール飲む? でも、ケガしてるんじゃお酒はダメよね」 ヒラメを二貫とも平らげた母が、唐突にアルコールを勧めてきた。 お酒が入った方が話しやすかろうという私への気遣いなのかもしれないけれど、同じく呑(のん)兵衛(べえ)な母のことだ。実は自分が飲みたいだけの気がしなくもない。「うん、やめとくよ。ドクターストップかかってるから」「そう? じゃ、お母さんもやめとくわ」 私が断ると、母もあっさり引き下がった。母は熱い緑茶を淹れ、私は店内の冷水機でお冷やを汲(く)んできた。 お冷やを一口飲み、お皿に残っていたもう一貫のサーモンを食べてから、次のお皿(鉄火巻き)を取りつつ、私はようやく本題に入った。「――実はね、私いま好きな人がいて。でも仕事はスランプ中で、自分でもどうしていいか分かんなくて……」 この二つのことは、まったく別のことのようで実は繋がっている。――で
「――でね、私が書けなくなってる原因って多分、『書かなきゃ!』って自分で自分を追い込んでるせいだと思うんだよね」 これが、自分なりに分析(ぶんせき)してみた私のスランプの原因だ。「確かに、あんたは昔から一人で責任を背負(しょ)い込んで思いつめちゃうところがあったわねー」 二皿目のブリをつまみながら、母が頷く。「…………うう~~」 思いっきり図星だったため、私は鉄火巻きを食べていた手を止めて天を仰(あお)いだ。「ねえお母さん、……私どうしたらいいと思う?」 私は視線を天井から向かい側に戻す。原因が分かっても、解決策は何も浮かんでこないのだ。「そんなの簡単よ。ただ初心に帰ればいいだけの話でしょう?」「へ?」 母の答えは抽象(ちゅうしょう)的かつ漠然としすぎていて、マヌケな声しか出てこない。「じゃあ、もっと分かりやすく訊かせてもらうわ。あんたは一体、誰のために作品を書いてるの?」 母のぶつけてきた質問はシンプルだけれど、それでいて核心(かくしん)をついてきている。「それは……」 改めて考えると、なかなか難しい。 自己満足? ――のはずはない。じゃあ原口さんのため? ――も違う気がする。じゃあ……、ファンや読者さんのため? ――うん、そうだった。私、本当に大事なことを忘れてたんだ。「――そっか。私、分かった気がする。作家として〝初心に帰る〟ってこと。――お母さん、ありがと!」 母のおかげで分かった。というか、思い出した。少し前までの、書くことが楽しくて仕方なかった自分を。だから義務感は捨てて、もう一度「書きたい!」って気持ちから始めてみよう。 原口さんから言われた〝気持ちのリセット〟って、こういうことだったんだ。「あ~、なんか食欲湧いてきた! さあ、食べまくるぞ♪」 悩みが吹っ切れた私は鉄火巻きを平らげた後、三皿めを取る。今度はウニの軍艦巻き。母も負けじと(?)、中トロを取っている。一貫で百円のお皿だ! でもやっぱり、私は玉子は食べなかった。 ――お母さんって偉大だなあ。娘の私のことをちゃんと見てくれてるし、私が忘れかけていた大事なこともちゃんと思い出させてくれたし。 この人の娘でよかった。私は恵まれているんだなあとまた実感した。
* * * * 「――お母さん、今日はありがとね。ここは私が払うよ」 会計の時、私がお財布を出すと、母がそれを止めた。「いいから、お母さんが払うわ。あんた生活ラクじゃないんでしょ?」「うん……」 前回の原稿料もバイトのお給料も入ったけれど、一人暮らしは何かと出費がかさむからできるだけお金は残しておきたいのが本音。「でも、今日誘ったの私なのに」「いいの! 今日はお母さんのおごり! その代わり、印税入ったら何かお礼してもらうから」「……分かった。ゴチになります」 ゴチになるのは構わない。今日の食事代は二人分でも三千円もかからなかったから(デザート代込みで)。でも、お礼で高いものをねだられたらどうしよう? そんなに印税入るだろうか?「――じゃあ、私はここで。お母さん、今日はホントありがとね」 駅の改札前で、母と別れようとしたところ。「明日もお休みなんでしょ? 今日ウチに泊まってく? ……って言ってもムリよね」 一人は淋しいから言ってみただけらしい母が、すぐに肩をすくめた。ちなみに、清塚店長からしばらくバイトを休むように言われたことは、食事中に母にも伝えてあった。「うん、ゴメンね。早く帰って原稿書きたいから」 たったの一時間ほどでこれだけ意識が変わったことに、自分でもビックリだけど。今は一秒でも早く仕事がしたくてたまらない。「そう。じゃあ気をつけて帰るのよ。でも、その手はさすがに痛々しいわね」 叱られはしたけれど、母は母なりに私の傷の心配をしてくれているらしい。でも、ここに父がいなくてよかった。父がこの手を見たら、きっと卒倒するだろう。「……うん、前に進むための〝名誉(めいよ)の負傷〟ってとこかな。でももう大丈夫!」 迷いはなくなったから、傷の痛みもすっかり癒(い)えた。「それならいいけど。――奈美、これだけは忘れないで。お母さんだけじゃない。原口さんっていう彼も、あんたの新作を楽しみにしてるファンの一人なんだからね」「うん、分かってるよ。ありがと」 じゃ、と母に背を向けて、私はICカードで改札を抜けた。 私のことを信じてくれている原口さんのためにも、今回の原稿は最後まで書き上げて、私の想いをちゃんと伝えたい。 ――電車の窓から見えるライトアップされたスカイツリーが、少しずつ小さくなっていった。
マンションに着いたのは、まだ夜の八時半過ぎ。 今日は観たいTV番組もあったけれど、それよりも「原稿を書きたい!」という気持ちの方が強くて。リビングは素通りして、まっすぐに仕事部屋の机に向かった。「――さあ、書こう!」 シャーペンを手に取るといつもの〝儀式〟を終え、書きかけの原稿用紙を広げた。 ――『あんたは一体、誰のために作品を書いてるの?』 …… お母さん、言ってたね。原口さんも私の新作を楽しみにしてるファンの一人だって。だから私は書くよ。ファンの皆様と初めて私の本を読んでくれる人達と、そして大好きな原口さんのために! 私の意識の変化は筆の進み具合にも顕れるらしく、「書かなきゃ!」と思っていた時は捗(はかど)らなかったのに、「書きたい!」と思うと面白いくらいに筆がサクサク進む。 気がつくと夜中の十一時を過ぎていて、なんと二十枚以上も書いていた。 こうなるともう〝ライターズ・ハイ〟再びなのか、翌日は朝から晩まで書き続け、この二日で書いた枚数は五十枚以上! 締め切りまであと半月以上を残し、総枚数は二百枚を突破した。 一時は「降りたい」とまで思いつめていたのがウソみたいだ。 この調子なら大丈夫。原口さんとの約束も果たせそうだ。――今、電話しても大丈夫かな? 夜の八時過ぎてるけど。『――はい、原口です。先生、もう大丈夫なんですか?』 私の復活があまりにも早かったせいか、彼は驚きと心配が半々の声をしている。「はい、おかげさまで。昨日はご心配おかけしてすみませんでした。もう大丈夫です」『それはよかった。――で、原稿の方は?』「昨日と今日で五十枚以上書けました。今の時点で二百枚超えてます。……ところで原口さん、一つ訊きたいことがあるんです」『……? 何ですか?』 私が昨日からすっと気になっていること。彼はどうして私が「降りたい」と言った時に「蒲生先生とは違う」と言い切れたのか? 自分が担当している作家がまた仕事を投げ出そうとしたのだから、怒っても不思議じゃない状況だったのに。 それをそのまま訊ねると、彼の答えはこうだった。『それは、先生がすごくつらそうな顔をなさってたからです。で、ああこれは開き直ってるわけじゃないんだな、と』「ああ……、そうだったんですね」 それで合点(がてん)がいった。思ったことがすぐ顔にでる性質に、今回ばかりは
* * * * ――秘書室に配属された他の子たちと一緒に、エレベーターでこのビルの最上階・三十四階へ上がると、そこは重役フロアーだ。社長室、専務と常務それぞれの執務室、小会議室、そしてフロアーのいちばん奥には会長室があり、秘書室のオフィスは給湯室を挟んで会長室の隣に位置している。 今のところ人事部長が専務、秘書室長が常務を兼務されているため、専務と常務の執務室は使われていないらしいけれど。小川先輩の話では次の役員人事で室長が副社長、人事部長は常務になるそうなので、近々また使用される予定とのこと。そして次の専務はどうやら、桐島主任が就任するんじゃないかともっぱらの噂らしい。……それはさておき。「秘書室へ配属されたみなさん、入社おめでとう。私が室長の広(ひろ)田(た)妙(たえ)子(こ)です。よろしく」 わたしたち新入社員をにこやかに出迎えて下さったのは、パリッとした真っ白なスーツ姿で長い髪を一つに束ねた四十代前半くらいの女性。メタルフレームの眼鏡(メガネ)をかけているキャリアウーマン風の人で、一見厳しそうな印象を受けるけれど、小川先輩曰く茶目っ気もあって優しい人だよ、とのこと。「我々秘書の仕事は、一言でいえば上役のサポート役です。主な内容はスケジュール管理、来客の応対、その他業務の代行など。ですが難しく考えないで、自分にできることを誠心誠意務めるということがいちばん大切だと私は考えています。やり方は一人ひとり違っていいので、自分に合った仕事のしかたを見つけていって下さいね」「「「「はい」」」」 室長のお言葉で、「秘書の仕事って難しそう」と思って肩に力が入っていたわたしも少し気が楽になった。 そして室長の次に、爽やかに挨拶をしたのが――。「みなさん、入社おめでとうございます。僕が秘書室主任で、会長秘書も務めている桐島貢です。よろしくお願いします」 程よくガッシリした長身の体に紺色のスーツを着込み、赤い巣とストライプ柄のネクタイを締めた桐島主任だった。 わたしは彼に思わずポーッとなってしまう。この人は絢乃会長の婚約者で、彼女のことを心から愛しているんだと分かっているのに……。 ……これは恋じゃない。ただの憧れの感情だと自分に言い聞かせる。多分、アイツから逃げたいだけの現実逃避なんだと。
* * * * ――結局、彼はやっぱり泊っていくことになった。 洗い物を済ませてから二人で交代に入浴し、寝室で甘~~い時間を過ごしたら、私は無性に書きたい衝動(しょうどう)にかきたてられた。「――ゴメンなさい、原口さん。私、これからちょっと仕事したいんですけど。机の灯りつけてても寝られますか?」 私が起き上がると、彼は「仕事って、執筆ですか?」と訊き返してくる。「そうです。眩しいようだったら、ダイニングで書きますけど」「いえ、僕のことはお気になさらず。……ただ、明日出勤でしょ? あんまり遅くまでやらないようにして下さいね」「うん、ありがとうございます。キリのいいところまでやったら、適当に寝ます。だから気にせず、先に寝てて下さい」 私はベッドから抜け出して、部屋着の長袖Tシャツの上からパーカーを羽織り、机に向かった。書きかけの原稿用紙を机の上に広げ、シャープペンシルを握る。 ノートパソコンは、相変わらずネットでしか稼働(かどう)していない。タイピングの練習は、時間が空いた時だけやっている。でも、パソコンで執筆する気にはやっぱりなれない。 原稿を書きながら、数時間前に観た映画のラブシーンとついさっきまでの彼との濃密(のうみつ)な時間を思い出しては、一人で赤面していた。私が書いている恋愛小説は濃厚(のうこう)なラブシーンが登場するようなものじゃなく、主にピュアな恋愛を描いているものがほとんどなのだけれど。 私の恋は、小説やTVドラマや歌の世界を地(じ)でいっている気がする。 潤のことも、もちろん本気で好きだった。だから、「小説家なんかやめろ」って言われてすごく傷付いたんだと思う。「どうして好きな人に応援してもらえないの?」って。 でも、原口さん相手ほどは燃えなかったなあ。こんなにどっぷり好きになった相手は、多分彼が初めてだ。そして、ここまで愛されているのも。 だって彼は、私のことを丸ごと愛してくれているから。私のダメなところも全部認めてくれて、決して貶さないし。……こんなに出来た彼氏は他にいないと思う。 ――集中してシャーペンを走らせ、原稿用紙十五枚を一気に書き上げると、時刻は夜中の十二時過ぎ。いつの間にか日付が変わっていた。「ん~~っ、疲れたあ! そろそろ寝よ……」 私はシャーペンを置き、思いっきり伸びをした。ふと、後ろのベッド
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」 私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈(たけ)のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。 今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」 これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃(そろ)っている。「じゃあ……、邦画の方で」「了解(ラジャー)☆」 私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。 ――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。「「わ…………」」 途中で際(きわ)どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。 あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬(まばた)きひとつせずに画面に釘付けになっていた。 ……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。「お~い、起きてますかぁ?」「…………ぅわっ!? ビックリした!」 ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」「スミマセン」 お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」 映画は二時間足らずで終わった。プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」 この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ね
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三十分後のことだった。 ちょっと空(す)いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」 私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」 ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。 カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。「――お待たせ!」 数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載(の)ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利(き)くなあ」 原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味? いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」 首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」 ……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。「いただきます」 一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。それとも、ただマイペースなだけなのか……。「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」「えっ、引っ越すんですか?」 私も紅茶をすすりな
「ね? 可愛げないでしょ?」 私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」「……はあ、それはどうも」 そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分(じゅうぶん)女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」「えっ、どんなところが?」 私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑(まど)わせていたかもしれないってこと……?「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離(しきんきょり)でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保(たも)つのが大変だったんですから」「うう……っ!」 思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆(おお)った。当たり前だけれど、やっぱり原口さん(この人)も成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々(かずかず)を目にしながら、一人悶絶(もんぜつ)していたなんて。「……手、出そうとは思わなかったんですか?」 恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」 鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。 どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」 小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。「はっ……!? あ……、スミマセン」 恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。「……え? なんかおかしいですか?」「ううん、別にっ!」 そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。彼もムッとするど
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」 明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」 彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握(はあく)している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。 でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」 ……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。「そっ……、そんなことは――」「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。「……うん、確かにそうかも」 情けないことに、彼の指摘は思いっきり的(まと)を射(い)ていた。「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。 悪態(あくたい)はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」 最後はもうほぼ自虐(じぎゃく)ぎみに言って、私は肩をすくめた。「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」 原口さんは首を傾げる。「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」 私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活(プライベート)も少しずつ分かってきた。彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。 もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。 そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂(あかさか)にある。お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。 出身は前にも聞いたけれど兵庫県(ひょうごけん)の南東部。でも神戸(こうべ)じゃない。どうりでたまに関西(かんさい)弁がポロっと出るわけだ。彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力(きょくりょく)標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
「まあ……、一応考えときます」 私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。 まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」「〝やっぱり〟って何が?」 自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」 私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」「ええ~~!?」 私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々(しらじら)しいアピールはやめましょうよ」「……バレたか」 本当は最初から私がご馳走(ちそう)するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。 ――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」「……どういう意味?」 褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」 とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」 彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。